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図書新聞経済時評1998.5.

 

経済論議の社会層的構図

――経済学が生み出すルサンチマン仮説

 

橋本努

 

 大学で経済学・経営学・商学を学ぶ学生の割合は、全学生の二五%。毎年七〇万人の入学生のうち、実に一七万人以上の学生が経済学を勉強していることになる。しかし文科系の学生の多くは「数学嫌い」ではなかったか。経済学の簡単な数式にすら当惑を覚える人も少なくないはずである。あるいは数式をクリアしたとしても、例えばサミュエルソンの『経済学』をマスターしようとなると、見出し語だけで七六五四個の言葉を覚えなければならない。ちなみに英検一級に必要な単語は五○○○語であるから、経済学の習得はそれ以上に難しい。経済学は最初から、どこかで挫折するように仕組まれているのかもしれない。

 ある調査によれば、最近、経済学離れが著しく、経済学部においてすら、経済学が「面白い」と答える人が減少しているという(特集「経済学者という職業」『経済セミナー』一九九八、三月号)。アメリカでもハーヴァード大学では、八〇年代に経済学を専攻する学生が三倍に増えたものの、人気科目の一位は政治学に移った。経済学の人気は、ここにきて陰りを見せている。

 しかしそれでもなお経済学は、社会的に重要な地位を占めている。アメリカでは経済学専攻の大学教授たちが多くテレビに出演し、社会政策のために意見を述べることが多い。子供たちは「将来何になりたいか」という質問に対して、医者、弁護士、スポーツ選手、上院議員、そして大学教授と答えるという。また、多くの欧米諸国では、現在流行の経済理論を正確に話せないと、高い政治的地位を望めない。アメリカの金融界では、投資銀行家になるために、経済学の学位と優秀な成績が必要だ。日本では、上級国家公務員になるために経済学の試験にパスしなければならない。このように経済学は、政治・経済のエリート・パスポートであるかのように見える。

 しかし問題は、学んだはずの経済理論が、どんな仕事においても役に立たっていないという奇妙な事実だ(P・オルメロッド『経済学は死んだ』ダイヤモンド社、一九九五)。実用的でない最新の経済学が、なぜ社会的地位を得るために必要なのか。疑問に思う人も多いだろう。内橋克人編『経済学は誰のためにあるのか』(岩波書店、一九九七)は、ジャーナリストの内橋氏が著名な経済学者たちと対談することを通じて、新古典派経済学に基づく市場原理至上主義を問い直すという好著である。本書を読むと、「官・学」VS「民・ジャーナリスト」という論争の構図が浮かんでくる。この構図は、経済学の非実用性と無縁ではあるまい。

 新古典派経済学をキチンと理解できた人は、経済学者か上級公務員(あるいはシンクタンク系エコノミスト)になる。新古典派経済学を理解して余力のある人は、大物の経済学者になる。これに対して経済学を諦めた人は、挫折感を持ちつつも、企業人や生活者といった経済人になる。こうして、経済学によって社会層がまず分化する。

 そして政策面では、新古典派系の経済学者とエリート官僚は結合して、市場原理に基づく規制緩和政策を主張する。これに対してジャーナリストは、生活者の視点から市場原理に対抗する。彼らを支持するのは生活者だけではない。新古典派経済学を不十分だと考えている一匹オオカミの大経済学者たちも支持する。こうして経済論議は、社会層に応じて対立図式を作ることになる。

 経済学を経済学者の手に任せておくと、学問固有の論理にしたがって形式化と体系化の道をたどっていく。この傾向に対して「経済学は死んだ」とか「終わった」と言ってくれる人は、とても頼もしい(例えば飯田経夫『経済学の終わり』PHP新書、一九九七)。経済学に挫折した人々のルサンチマン感情を満たしてくれるからである。内橋氏は、「規制緩和」が官主導であり生活感覚に基づくものでないことを批判し、経済学を万能だと思っている経済学者たちは傲慢であると言ってのける。経済学を操る「官・学」と、生活者視点からこれを批判する「民・ジャーナリスト」。この構図は、経済学が生み出す不毛なルサンチマン感情に発するのではないだろうか。経済論議のルサンチマン仮説である。

 

(経済思想)